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2023-10-12
天正3年(1575年)5月21日 織田信長・徳川家康軍38,000人と武田勝頼軍15,000人が激突し、織田・徳川軍が、強力な武田の騎馬軍団を馬防策でくい止め、3,000丁の火縄銃で撃退しました。鉄砲の威力を初めて天下に示したのです。
『長篠城址』や『設楽原決戦場跡地』での現地を見歩きながら、奥平軍、武田軍、織田・家康連合軍などの「守る側」と「攻める側」の視点に立ち、戦いの後に思いを馳せてみました。
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長篠城址史跡
屈曲した土塁は火縄銃対策と「横矢かけ」を意識した巨大な遺構として残されています。
長篠城は寒狭川と宇蓮川の合流点にあり、川面から25m程の断崖上の要害の地で守りが固く簡単には落ちなかった様です。
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『鳥居強右衛門』
長篠城の危機を救った鳥居強右衛門の磔刑の背旗と対岸の現地を眺めて。
強右衛門の子孫は奥平松平家に厚遇され、この家系は現在も続いているそうです。
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設楽原歴史資料館
設楽原決戦場を代表とする『場防柵』の再現地を巡ります。
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