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2022-05-26
織田信長の小牧山城は、丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563年)7月には主要兵力を小牧山の城に移したと伝えられているが、わずか4年の居城期間から、美濃攻めのための簡易的な砦と考えられていた。しかし、近年の発掘調査で、城の南に城下町等が計画的に整備されていたことが分かり、本格的な「尾張国首移転構想」に基づき「土の城」ではなく革新的な「石の城」であり、美濃攻めの拠点であったと言われている。
『定光寺年代記』に拠れば、織田信長は小牧山城を「火車輪城」と名付けたとされる。城名由来の「飛車(ひくま)山」は小牧山の古い呼び名のひとつであるとされる。
小牧山城の石垣の特徴である巨石野面積石垣の説明を受ける。 大手道
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岩盤加工の入隅と石垣の説明を受ける
三段目の石垣の説明を受ける
小牧山城は、実業家、松平茂氏の寄付にで西本願寺「飛雲閣」を模して造られた。
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ボランティアガイドさんから信長が「如何にして、岐阜城攻略をなすか?」等の説明を受ける。
天守からは、岐阜城、犬山城、名古屋城や鈴鹿、御嶽、濃尾平野等が一望できた。
19代徳川義親公像と小牧山城
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